昭和42年1月20日  夜の御理解



  只今、あの御祈念前に、高橋さんから、お届けを聞かせて頂いて、感激するのですけれども、昨日、正月から初めての、家内の里への、あいさつにいっ、まあ商売なさっておられますから、忙しい、もういつもあの~、本当に酷使するくらいに、疲れとると、昨日奥さんの、(?)もかねて、里帰りをされた、して帰りに、あの、近所の、お~あのふもとにある小さい、温泉に、よられて、「先生そこの、(?)された間が先生なんと桂と言う間でした」っち、これは私は思うんです、椛目と本当に、私をまあ親先生と言うて下さって、御信心を続けておられる、方達の上にも、同じ働きというものがあっておるということです、ね、そういう、特別な働きを受けておらんはずがない、ですから、そこんところを、ただ感激しておると、「本当に間違いないな」と、とは、心、心おきなく、まあ、温泉に浸っておっても良いなぁとう、その安心だけではなくてです、その、桂先生の、という桂先生というよりも、いわゆる教祖の神様のという過程に繋がりましたものと言うか、もう私共が頂いてきておる信心というものが、もうそれに応えるという信心。
  最近、この「素直に頼め」ということを、私がしきりに申しておりますが、素直に頼めということと同時に、私は「素直に聞かせてもらう」ということが大事だということなんです、ね、素直に頼むということも大事だけれども、なら、神様の願いというものをです、ね、なら、これは、初代、先代、これは桂先生ということは桂、大先生だけのことではないけれども、その、御精神というものは同じなんだ、ですから、その、そういう一つの特別の働きを椛目に、丁度ここに花を咲かすような、おかげを頂いて、その時に、お互いが、あ~、生まれ合わせた、言うなら、おいなるように、私共は生まれ合わせたことでございますけれども、それが、(あだまだ?)になってはならないと、それが筒実、それが実るというところの、おかげを頂かせてもろうて、その信心にお応えしなければならない、しかもその実と、いうのが、一粒万倍の、おかげの頂けれるような、信心を持ってお応えしなければならないというところにです、私共は焦点を置くべきだとこう思うんです、素直に頼むということはです、素直に聞くということ、ね。
  「氏子が神様任せなら、氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられる」という、まず私共が、まず、素直に聞かしてもらうということ、うんなら、「しっかり御造営があっておるから御造営の御用、しっかりせにゃいかんよ」と、決してそんなことではないと思うんです、ね、勿論それっ、けれどもそれよりかもっともっと、私は、こい願うておられることをです、ね、御造営を通しての、お互いの信心の、おぉ脱皮であり、向上であるということなんです、ね、そこんところを素直に聞かなければ分からん、ね、もう、例えば昨日、お~、朝晩、長男と夫婦で参ってきとりましたが、イサオさんが、あの~お月次祭の、夜の御祈念、あのぉ御理解を頂いてす、家内で、今日二人で話して帰ったということ、本当にあの信心生活ということ、「先生がいつも言われるが、自家で、家で御用頂きよっても、ね、その御用そのものが、信心だ、御造営に繋がっておるんだと、いうことであれば、それはすなわち信心生活だと、親先生が説かれるんだけれど、俺はそれを反対に思う」とこう言うのです、ね、だから、結局、お参りそのものも、お商売だということ、あの人に言わすれば、私は本当に膝を叩いてから「そうたい」っち言うような感じがしましたですね、ね、ですからですね、お商売をしておるということもです、例えば椛目を通って行かなければ、例えばなら、佐田しょういっ、と言う、お~、定利さんという、おその、会社に、の、まあ人にておとしておかげ頂いてるわけなんですけれども、その、「さだ、さだよの、支店に行くためには、椛目を通って行かなければ行けないのだということ、それもそのまま商売の中にあるんだと」と、俺は感じたと言うて話されたという事なんですね、これは厳密に言えば、あの本当の信心生活ということを厳密に言えば、あ~、仕事即信心生活ではなくて、信心ではなくて、もう信心即仕事と言われております、けれども、素晴らしいと私は思うんです、それは、なら、完璧にそういう(?)が実行されておるとは言えませんけれどもです、そういう思い方なんです、もう商売の中に椛目(?)が入ってるんだということなんです、ね、私は御造営を通しての信心を求められるというのは、そういうようなところではなかろうかとこう思うのです、ね。
  神様の、確かに、もう本当に身近に神様の働きを、いやと言うほど感じるくらいな、働きを私共の周辺にこうして頂いておるわけですけれども、その、お~働きが、働き、本当に働きになるためにです、私共がその働きに対して、応え奉る、いわゆる信心が、工夫されなければ、ならない時じゃなかろうかと、どういう風に工夫するかと、ね、佐田さんのその、一つのこりゃ佐田さんの、まあ悟りだと思うんですけれども、そういう工夫が、なんとかつけられて行かなければならん。
  今朝からの御理解に、お話をしたことでございますけれども、椛目での生き方がです、言うなら、「ついてきなされこの提灯に、決して苦労はさせはせぬ」ということ、ね、神様任せになって願うとこういうことなんです、けれどもです、ここにもう一つ次の、信心が今こそ求められておるというのはです、ね、「雨の降るのにおじゃるなというに、濡れておじゃればなお可愛い」という、そういう信心が、欠けておるのじゃなかろうかと、「もうこげな雨降る日なんて、よう、集まってくることやろうか」と、「今日の雨の日に参ってこんでん」というようなところをです、私共はやはり、そこんところを、「参ってこんでもええ」と言われるけれども、参らなければおられないという、ここんところが欠けておるのじゃなかろうかと、ね、私ここの二つのところが、いたっ、頂かなければ、花にはなっても実にはならんと思うのです、ね。
  昨日、夕べの御祈念に、長瀬さんの奥さんがお参りしてた、お夢頂ておられるのが、長瀬さんが一生懸命、あの、お酒作りをしておられるとこういう、お酒作る時だから一時の油断も出来ん、ちょっと油断すりゃすゆなる、ちょっと、ちょっと油断すりゃもうあらが大きくなる、上がってしまう、というような、あ~、状態、「あなたがお酒作りなさるなら、私は漬物漬けなっとんしよう」と言うてから、その百貫漬けの漬物を漬けようと言うておられたと、ね、例えば本当に、あの~、今、長瀬さんの(      ?      )ですけれども、この御造営が始まって此の方、もうどんなことがあっても、あの、ああいう今度の、(  ? )の時でも、自動車がなかなら自転車ででも、またやってきておられますが、ちゃんと五時前に、お参りしておられます、そういう例えばそのぉ、信心がです、なるほど御造営の原動力にならんことはないのですけれども、それが長瀬さんの物にならんはずがないです、今朝から、長瀬さんがお届けされますとに、昨日、もうづ~に感の義上げておると、しかも先生、そあこれがかんにさすのぞと言うてから、べっくらの、くしとかこうがれとかの、沢山こう頂いておる、そして、これだけは、「これだけはもう無念が残らんごと、海の真ん中へ捨ててこい」っちその、いわゆるお知らせを頂いておられます、ね、私もう本当にあの御造営を、あのぉ、あの時の信心を境にです、これはこれはと思うても、ね、それがあの御造営を境にです、本当にもう、おぉ、そこに捨てとっても無念がまた拾い行くごたる、だからもう、もう無念が、あぁ付かんように、「海の真ん中へ捨ててこい」というそのお声を頂いて今朝目が覚めたと言うておられます、神が結い上げられる、ね、それに別項の、お~、くしこうがいといったようなものが、添えられる、これをまた乱すもの、せっかく結い上げたものを乱すもの、それは私共の心の中にある所の、改まらなければならないという、「これだけは、せめてこれだけは、これがあっちゃぁおかげにはならん」というようなものをです、私共はこの際、取り除かして頂かなければいけん、ね、しかもそれがもう、足元に捨てるのではない、「海の真ん中に無念が付かぬように捨ててこい」とこういうお声であったと、もう本当にあの、神様の、さっき高橋さんのそうじゃないですけれども、お夢の中にでもです、こうしたお働きを頂いておられる方達のことを思う時に、それを感じなければまいりません。
  今日私、えぇ、親鸞が、あ~の、お書物を読んだ時に書いてあったことの文句をちょっと思い出さして頂いた、その後にこんなことを頂いたんです、「親鸞が人間性の無限について、障害泣いたと、罪悪、心情、煩悩、ごそくの権部で、地獄行きは、必定と嘆いた」というのです、ね、本当に世の中の生き仏様と、から、言われるような方がです、いよいよ自分という者を本気で、おぉその、考え出したところが、人間性そのものの矛盾に、直面しておられるです、ね、例えば今日の菊栄会の方達の、の場合なんかは、信心を進めたら必ず、もうこれで良いということはない、自分のこの、人間、人間性の矛盾に、に、ついて私は、本当に、え~、泣くような、信心というものが、え~、私はいるんじゃないだろうかとこう思うんですね、ね、そしてどうにも出けないもの、本当に、え、「罪悪、言わば煩悩、ごそくのぼんぶで、もう自分は、地獄行きは、もう必定と嘆いた」と、言うんです、そこで、これはもう、もう昔に頂いた御教えでございますけれども、これは、だからその先にです、「行く先は地獄の果てから知らぬども 喜びだけは持って行きたい」と、行く先は地獄の果てかもそれは分からんのだと、私共がですね、それはやはり宗教、というものを、本当に、あの、深めるということは、自分自身という者をやはり極めていくことなんだ、だから、「人間だからこのくらいなことを」と言ってわりきったらもうお終いなんだと、ね、もうこれがあって私がおかげの、いやこれがあって私が主人面しておれないのだと、先生面しちゃおられんのだと、ね、もう私は、私こそが、もう地獄行きは間違いないんだ、けれどもです、ね、その地獄の中とてもです、ね、持って行きたいのは、信仰の喜びだというのです、ね、その言うなら、皆さんが、そういう稽古にあると思うんです、そういうことに、また自分のぎりぎりなものを感じられる時に、それを、「ほんに自分のような」ということを思われる、ところまで信心を、え~、感じられることがあるだろうと思うです、ね、椛目で多くありますまい、そこまで信心を感じられる方は、ね、これどもそこにきです、喜びだけは持って行きたいというその喜びそのものが、今日私が言うところを頂かなかったら、頂けんのです、ね、「私のような者に神様はかくまでおかげを下さって、勿体無し」というその喜びなんです、ね、これは、もう、言葉でもなからなければ、その教えるということも出けんのですけれどもです、ね、そこんところを、私は今こそ体験さしてもらう、ところの信心こそがです、例えば、その~、まあ桂大先生の御信心が、私共の上に伝わって、私共の上にこうやって、まあ快感のおかげを頂く、あ~、言うならおおいなるように、私共は生まれ合わしておるという事が有り難い、が、が、そのおいなるように生まれ合わせておったと喜んでおるだけではならない、それをです、また次の者に伝えて行くために、これを(?)結実、実にしとかなければならないと、実にして行くという信心を、まず私自身が、徳を受けることだ、力を受けることだという風に感じるんですね。                                                  どうぞ。